後ろから渚の声を呼ぶ遥樹の声が聞こえたが、振り返ることはなかった。
渚はただ、がむしゃらに走った。
目的地があるわけではなかった。ただ、遥樹から逃げたかっただけだった。
そうして無我夢中で走っているうちに、やがて大通りへ出た。横断歩道の信号に阻まれ、渚は立ち止まった。猛スピードで目の前を駆け抜けていく車の群れを眺めているうちに、渚はどうしようもない絶望感に襲われた。
普通、男が恋をするのは女だ。
渚も遥樹も男なのだ。男を相手に恋などできるはずはなかった。
遥樹はどう思っただろう。
いい気はしなかったに違いない。
後悔の念がこみ上げてきて、渚を責め立てた。なぜあんなことを言ってしまったのだろう。言わなければよかったのに。
今頃遥樹はぞっとしているに違いない。
―――気持ち悪い。
頭の中で、誰かが囁いた。
もう、終わりだ。
そう思った。
あの車の群れに飛び出せば、死ぬことができるだろうか?
漠然とそう思った。別に死にたいと思ったわけではない。ただ、死んでしまったらどんなに気が楽だろうと思っただけだった。死んでしまったら、もうこんな苦しみを味わわずにすむ。そのかわり、もう二度と遥樹の顔を見ることもできないけど……。
目の前を、狂ったように車たちが走っている。
渚は、一歩足を踏み出した。
「危ないっ」
車道にふらふらと歩み寄ると、何者かの声と共に腕を引かれ、渚はバランスを失って渚の腕を引いた何者かの胸に抱き込まれるようにして転倒を免れた。
「何をやってるんだ、おまえは。死ぬ気か」
頭上から聞こえてきた聞き覚えのある声に、渚は驚いて振り向いた。
見上げると、そこにいたのは紛れもなく月岡京一その人であった。
茫然と京一の顔を見上げる渚の顔に涙の跡を見つけて、京一は深い溜息をついた。
「何があったのかは知らないけど。自暴自棄になるんじゃないよ」
「……先生」
「うち、すぐそこだから。おいで」
優しくそう言われて、渚は小さくうなずいた。
信号が赤から青へ変わる。人の群れが動き出す。二人も、ゆっくりと歩き出した。
あたりはもう、すっかり日が暮れている。
***
渚の走り去った後を見つめて、遥樹はわけが判らずに立ち尽くした。
無性に苛々した。
それは、男に告白されたことに対する不快感とは明らかに違っていた。
不快感はない。逆に、遥樹はほっとしたくらいだった。渚に嫌われていなかったことを知ってほっとしたのかもしれない。だが、無性に苛々した。
その苛々の原因は判らない。そして判らない感情に、苛々した。
好きだと、渚はそういった。
遥樹のことが好きだと。
一体どういう意味だ?
いや、意味などもう、聞く意味すら持たない。その言葉に意味はない。
だが、問いたい気持ちなのだ。
一体どういう意味だ、と。
今まで散々、遥樹を避けてきたというのに。いまさら好きだなどというのか。
細い首筋と、白い肌と、上目使いの瞳、顔を隠す長い髪、恥ずかしそうにしゃべる口唇。
ずっと、今までずっと、一緒にそばにいた、渚。
だがもう、自分を嫌っているはずだった。
好きだというのは本当か?
だとしたらなぜ、今まで遥樹を避けていたのだろう。
それよりも、もっとわからないことがある。
自分は一体、どうしたらいいのか。
判らない。
解らない。
分からない。
わからない。
なぜ迷っているのだろう。
答えなど、考える必要もないはずなのに。
こんな想いは、不自然だから。
無性に、苛々した。
苛々を紛らわせ、一時の快楽を得るために、遥樹は立ち上がって夜の街へと家を飛び出した。
いつものあの店に、いつものあの女はいるだろうか。
快楽を得るために歩いているのに、遥樹の心は晴れなかった。
ふと、街頭の間から空を見上げる。
あたりはもう、すっかり日が暮れている。
***
京一の家は、大きなマンションの一室だった。玄関を上がると廊下になっていて、廊下の正面にある曇りガラスのはめられたドアの他に、廊下の左右に二つずつドアがある。
「先生、一人暮らしですか?」
「ああ」
それにしてはいやに広い家に住んでいる。
家具もシンプルだが品のよさそうなものが多く、テレビの正面に置かれたソファなどは革張りの、しかも三人がけの大きなものだった。
「まぁ、そこに座ってて」
そういいながらソファを指差し、京一はリビングの奥のキッチンへ入って行った。
渚はすることもなく、ただ言われるがままに大きなソファの端の腰を下ろした。
革張りのソファはとてもやわらかく、座り込むとなんだかやけに疲れた体に染みて、沈むように背もたれに背を預けた。するととたんにささくれ立ったような心が穏やかになっていくような気がした。
静かに深呼吸をすると、かすかに香水の香りがした。
「……落ち着いたか?」
声がして振り向くと、その先にはマグカップを二つ持って心配そうに微笑する京一がいた。マグカップからは湯気がゆるゆると昇っていて、渚は京一が右手に持っていたマグカップを受け取った。
「紅茶。飲みなよ。ティーバッグだから、あんまりうまくないだろうけど」
「ありがとう……ございます」
入れたての紅茶を飲むと、すっと心が静かになっていくような気になる。渚はあまり詳しくないので良くわからなかったが、どうやら入れてもらったのは何かのハーブティのようだった。
「……あのさ、その敬語。やめない?」
「え……」
両手でカップを持って紅茶を飲む渚に、京一は立ったままそう言う。
カップを片手に、空いた手の方を渚の座るソファの背に置いて、困ったように続ける。
「なんか敬語って慣れてないから。よそよそしく感じてさ。まぁ、学校じゃまずいかもしれないけど、ここは俺の家だし、関係ないだろう?」
そう言われても、困る。
年上の、それも学校の先生に、急に砕けた口調でなど話しかけることはできない。
「嫌なら別に無理しなくていいよ」
「……別に嫌じゃない」
戸惑いながらそう言うと、京一はとても嬉しそうに笑った。
「よしよし。……で、何があったんだ?」
問われて、渚は体を硬くした。
京一はゆっくりと渚の隣に腰を下ろした。
「言ってみろって。一人で考えてるとさ、行き詰るってこともあるだろ。ヒトに話せばすっきりするよ。ほら、言えって」
渚は、両手にカップを持ったまま微動だにしない。
「……おまえの、好きな奴のことか?」
ぴく、と渚の肩が揺れた。
「言いたくないのか……?」
京一の声は優しい。
「それなら、言わなくてもいいんだよ。それとも、言い難いの?」
甘えてしまいたくなる。
「なら俺は、おまえが言えるようになるまで待っていてやるよ。いくらでも待っててやる。だから、ゆっくり考えていい。悩んでいい。迷っていい。俺は、待ってるから」
ふと、京一は優しく微笑んだようだった。
それきり京一は口を閉じた。時折紅茶を飲む気配がする以外は何も音がしない。広い部屋の中で、三人がけのソファにぴったりくっついて座って二人して紅茶を飲んで、まるで優しい時間がゆっくりと流れているかのようだった。
隣に座る京一の体から、紅茶の香りと一緒に香水の匂いがした。
「……言ってしまった」
やがて、渚はポツリともらした。
「……何を?」
京一はあくまで優しく問う。
「僕の気持ちを……ハルに対する僕の、想いを……言ってしまったんだ」
「ああ」
「言うつもりなんか、なかったのに」
震えている。
雪の中で立ち尽くす子供のように、その白い肌を一層白くして震える姿が痛々しくて、京一はカップをテーブルにそっと置くと、慰めるために渚の肩を抱いた。
「……大丈夫だ、汀。吐き出してしまえよ。全部、何もかもさ。俺が聞いていてやるから。俺はおまえのすべてを受け止めてやるから」
静かに囁きかける京一の優しい言葉に、渚はこらえきれずに涙をこぼした。
「う……っ」
蒼白の顔を白い両手で覆って、渚は声を堪えながら泣いた。
「大丈夫だよ。何も悪いことなんかない。おまえは変じゃない。駄目じゃない。汚れてもいない。この広い世界の中で、おまえは一人きりじゃない。誰もいなくなっても、おまえには俺がついてる。おまえだけじゃない」
「せんせ……」
「おまえだけじゃないよ」
渚は京一にすがりついて泣いた。
ゆがみきった不自然な想いをもてあまし、否定し、その痛みに苦しめられながら、それでも誰かに許して欲しくて、許しを乞いながら京一の胸の中で泣いた。
「ハルには、彼女がいて……」
泣きながら、渚は叫んだ。痛みを耐えながら慟哭した。
「いつも……いつも女の人の噂が……っ、絶えなくって……僕は、それに嫉妬してた……」
好きなのに。
遥樹のことが好きだと思うこの気持ちは純粋で、女が男を、男が女を想うのと変わらないと思うのに。
それでも渚の想いは許されぬ、受け入れられぬ、間違った想いだというのだろうか。
間違いだと、言うのか。
「僕は……僕は一体どうしたらいいんだッ」
京一は渚を抱きしめながら、どうにもならない感情がこみ上げてくるのを感じた。
彼にも覚えのある悩みだったからかもしれない。始めてその自分の想いに気付いてしまったとき、同じように絶望の淵に追い込まれたのだ。
だからかもしれない。
京一は傷ついた渚から目を離すことができなかった。抱きしめた腕の中で震える小さな少年を、守ってやりたいと想った。
「……何が、カウンセラーだよ」
京一は苦々しくつぶやいた。
肝心なときに誰も癒してなんかやれないじゃないか。認めてあげることが大切? 不安を取り除いてあげるのが先決? 冗談じゃない。
そんな口先だけの慰めで、一体渚の何を和らげてやることができるというのだろう。
- 作品名
- 第四話(風の中へ)
- 登録日時
- 2002/05/21(火) 00:00
- 分類
- TOシリーズ::風の中へ