「ほら、帰るぞ」
言われて慌てて履き替える。
渚のことを心配しているくせにさっさと先に歩いて行ってしまうこの男の後を、渚は小走りで追いかけた。遥樹とこうして一緒に歩くのは本当に久しぶりだった。
(また……背が伸びたな)
すっと伸びた背中を見つめる。中学生のころから大きかったけれど、今ほど二人の間に身長差はなかったような気がする。渚は小柄な方ではあるが、それでも身長は170センチあるかないかというくらいだ。渚の場合はその痩身が小さく見せている様でもある。その渚と遥樹では15センチくらい差があるようだった。
電車に揺られ、いつもと同じ車窓から外を見た。
その風景は確かにいつもと同じだったが、窓に映る車内にはいつもはいない遥樹の姿が渚の隣にぼんやりと映っていた。
窓ガラスに映る二人の姿を見比べて、渚は我知らずため息を漏らす。
身長、肩幅、顔つき、体つき。
そのどれをとっても渚は遥樹に劣っていた。
初めは憧れだった。
まだ幼かった渚は、成長の早かった遥樹をうらやましいと思ったのだ。そしてあの力強い腕で振り下ろされる竹刀の威力を見たとき、渚の憧れは名前を変えていた。
―――恋だ。
自覚をしたのはそのずっと後だ。
今も昔も、あまりにも情けない自分の姿に落胆し、遥樹の顔を見ては胸を躍らせた。
まるで星座占いを心から信じる少女のようだと自分でも思った。
なりたい自分の理想を押し付けてナルシズムに浸っているだけだとも思った。
そう思ってからは、遥樹とまともに目もあわせられなくなった。
それは、今でも変わらない。
「おい、何ぼっと突っ立ってんだ?」
頭上から声がして顔を上げると、山石道場の前に立ってこちらを振り返っていた遥樹が不機嫌そうに腰に手を当てている。
「あ……えっと」
考え事をしていた渚は咄嗟に返事を返せずに言葉を詰まらせた。
いつの間にか、電車も降りて渚の家の隣に建つ遥樹の家まで来ていたらしい。
「早く来いよ」
言われて、ようやく歩き出す。
久しぶりに入る道場は、以前と変わらずにあの独特の緊張感ある空気を保っていた。
道場に上がりぐるりと周囲を見渡し、続いて遥樹に視線を転じた。
遥樹と目が合う。
「……ハルは……昔からいつもそうやって、僕を道場に呼んだよね。自分の部屋にはめったに入れてくれなくて……。そんなところ、今でも変わらないね」
動揺を隠すために、おかしなことを口走る。
外見は昔と変わってしまったが、そんなところだけは相変わらずで、なんだかおかしかった。
「別に、入れてやらなかったわけじゃないだろ」
照れたのか、ぷいと横を向く遥樹が愛しい。
「……オレは、今も昔も、かわってない」
遥樹は渚と目を合わせないまま、やおら苦しそうな表情をした。
「変わったのは、おまえの方だろ、渚」
渚は目をそらしたままの遥樹を見つめる。
「オレは今でも納得してない。どうしておまえはオレを避けてるんだ?」
遥樹はゆっくりと、渚と視線を合わせた。
「本当にわかんねぇんだよ。オレに原因があったんなら、何とかなるようにするから。わけわかんねぇままおまえと、こんな……他人みたいな冷たい関係、嫌なんだ」
真剣に言い募られて、目をそらすのは渚の方だった。
理由など、言える筈がない。
「オレのこと、嫌いになったのか?」
「……ッ!」
思いもよらない質問だった。
「オレのこと、嫌いなんだろ? 好かれてなんかないことくらい、オレにだってわかるんだよ」
違う、そうじゃない。
「けど、その理由もわかんねぇままじゃ、どうしようもねぇじゃんか」
「き、嫌いじゃないよ」
そうじゃない、違う。違うんだ。
「そんな嘘、すぐにバレんだよ」
嘘じゃ、ない。
「嫌いでもない奴のこと避けなきゃ何ねぇ理由なんかないだろうが」
あるんだ。理由なら、あるんだ。
「それともなんかあるのか?」
「それは……」
言えない。言えないのだ。本当の理由は言えない。嫌われたくない。蔑まれたくない。
どうしたらいいんだろう?
嫌いじゃないのに。理由を、何か、適当な理由を……。
「オレのどこが悪いんだ?」
悪く、ない。
「ホストのバイトしてんのが嫌なら、今すぐやめる」
それは、確かに嫌だけど。他の女に取られてしまうみたいで、とても嫌だけど。
そうではなくて……。
「茶髪が嫌なら黒くする」
その髪は、遥樹にとてもよく似合ってる。嫌いじゃない。
「この乱暴な言葉遣いが嫌ならきちんとすっから……渚……」
言葉は乱暴でも、その言葉の裏に隠れてる優しい気持ちを、僕は知ってる。
そんなことは問題じゃないんだ。
遥樹が真剣なまなざしで渚を見つめている。どんな言葉も漏らさぬように。嫌われている理由を知ろうとしてる。
胸が苦しい。
嫌われているのは、ハルじゃないのに。
嫌われるべきは……僕の方なのに。
苦しい……。
「どうして、オレを避ける?」
「だって、どうしようもないじゃないか!!」
頭に血が上ってしまった。かっと熱くなって、自分を止められない。
「僕は、もう自分じゃどうにもできないんだ! 判ってるのに!」
ああ、やめろ。
言うな……。
「こんなの不自然だって、いけないって、おかしいってッ」
これ以上は言うな、やめろ。
「判ってるのに止められないんだ! 僕にどうしろって言うのッ!?」
「な、渚?」
湧き上るわけの判らない感情のまま、すべてをぶつけるように渚は叫んだ。
もう、自分を止める理性すら届かなかった。
「僕は……僕はハルを好きになってしまったんだ……っ」
遥樹の両の眼が大きく見開かれる。
「恋愛って意味で、好きになってしまったんだ。駄目だって思うのに、思えば思うほど、僕はハルを好きになってた……っ」
ああ、ついに言ってしまった。
死ぬまでずっと、その胸に抱え込んでおくはずの言葉だった。知られてはならないと思っていた言葉だった。
保健室であの男に秘密を打ち明けてしまったから、頑丈だった鍵が緩くなってしまったとでも言うのだろうか。
死ぬまでずっと、誰にも知られてはならない想いだったのに。
渚の瞳から、静かに透明の雫が零れ落ちた。もう駄目だと思った。これでもう、遥樹に完全に嫌われたと思った。もう、後には戻れない。知られてしまった。
……知られて、しまった。
渚は体を翻すと、つまずくように靴を履いて道場を駆け出していた。
「渚!!」
- 作品名
- 第三話(風の中へ)
- 登録日時
- 2002/05/16(木) 00:00
- 分類
- TOシリーズ::風の中へ