Ⅱ
気がつくと、渚はどこかのベッドの上にいた。
それが自分の家の自分のベッドではないことは明らかだったが、いったいどこの誰のベッドなのかはわからない。
渚はぼうっとした頭の霧を振り払うように上半身を起こした。
パイプベッドだった。
さらに周りはカーテンで仕切られている。部屋の中はしんと静まっていて渚の他には人の気配もない。それで、咄嗟にそこは病院なのだと思った。
恐る恐るベッドから降りてカーテンをまくると、その考えが違っていたことを知った。
「おや、目が覚めたかい」
カーテンの外には、デスクで仕事をしている男がいた。
白衣を着ている。
めがねをかけた赤い髪の若い男。学校で何度か見た覚えがある。どうやらここは学校の保健室であったらしい。と、言うことはこの目の前にいる男は、
「保健の先生」
渚がそう呟くと、保険医は実に複雑な表情をして見せた。
「はいはい。俺は保健室の先生ですよ。まったく。おいおまえ、自分の名前わかるか?」
「みぎわ、なぎさ」
「クラスは?」
「……二年F組」
「あー、大丈夫みたいね」
そういって机上の書類になにやら書き込む。そして白衣の男はその紙切れをひらひらと渚の目の前に差し出すと、大儀そうに言い放った。
「はい、これ。提出書類ね。明日でもいいから担任のセンセに渡しておいて」
渚は目の前でひらひらと舞う紙を困ったように見つめる。
「えっ……っと、僕……」
「覚えてないの? 体育の時間にサッカーボール頭に食らって倒れたらしいけど」
そう言われて始めて、体育での出来事を思い出した。そして自分の情けない失態も。
「じゃぁ、僕はあれからずっと……?」
そういいながら時計を見上げれば、すでに授業の時間は過ぎて放課後と呼ぶべき時間になっていた。
「そうそう。病院つれてった方がいいかとも思ったけど、お前の友達がもともと寝不足だったらしいって言ってたから。そういう時はすぅぐぶっ倒れるからな。まぁ大丈夫かと思ってつれてかなかったんだ。外傷もないし、様子もおかしくないみたいだったから。どこか痛いところとかないか? 吐き気がするとかは? 少しでもなんか変だったらすぐ病院に行けよ。俺は医者でも保健医でもないから詳しくはわからんぞ」
一気にまくし立てる男の言葉に、渚は口を挟む余裕すらなくただ生返事を返す。
「あれ?」
だが、男がさらりと言った言葉に引っかかって、渚はふと首をかしげた。
「先生、保健の先生じゃないんですか?」
すると男はやれやれというように息をついて見せた。
「違うの。まったく、ここの学校の生徒って本ッ当にみんな保健医のこと知らねぇよな。大体、ここの保健医って女だろ?」
饒舌な男は渚の返事を待たずに言い続ける。
「よく聞けよ。俺の名前は月岡京一。スクールカウンセラーだ」
「スクールカウンセラー……」
そんなものがこの学校にいるなんて、知らなかった。しかしそういえば、相談事は保健室まで、なんて書いたプリントだか掲示物だかを見たような気もする。
「そうそう。スクールカウンセラーよ。知ってる? 何か相談があるんなら俺に言えよ」
そう言って、月岡京一と名乗ったスクールカウンセラーは優しく微笑んだ。
そうやって微笑めば、なるほど、スクールカウンセラーというにふさわしく穏やかな印象を与える。先ほどまでの飄々とした感じとはずいぶんと違う。
「おまえさ……汀だっけ? 汀ってさ、何か悩み事でもあるんじゃない? 寝不足って聞いたけど、夜遊びするようには見えないな」
「いや……たいした事じゃない、です」
「恋の悩みも聞くよ」
ドキッとした。
心を見透かされたような気がして思わず目をそらすと、京一はにやりと意地悪く笑みを浮かべたが、幸いにも渚はそれを見ることはなかった。
「いいじゃないの若人よ。人は誰しも恋をするモノよ? 俺なんか二十九になったけど、まだまだ実らない恋をしてるよ。言えば楽になるってこともあるでしょ。俺ならアドバイスもしてあげられるかもよ? 言ってみ」
「先生も、恋してるんですね」
小さくつぶやくと、京一は方眉を上げた。
「なに、もしかしてこの校内中に流れてる俺の噂を知らないの?」
渚は首をかしげる。
「まぁ座りな」
そう言って、京一は自分と向かい合わせになるように椅子を勧めた。
「噂って、なんですか?」
勧められるままに椅子に腰掛けながら渚は問いかける。
「知らないならわざわざ本人の口から言ってやるようないい噂じゃないんだけどね」
そう言って京一は少し悲しそうな顔をする。
「俺ってば高尚な趣味してるものだから、こぉんなにイイオトコなのに、フられてばっかなのよ。傷心中なの。」
「失恋……したんですか」
「そうそう。それで今は新しい恋を探してるところだから。汀もあんまり無防備に俺の前にいると危険かもよ?」
イタズラっぽく笑う京一を、渚は困ったように見た。こういう冗談は、なんと言って返したらいいのか良くわからない。
「あながち冗談ってばっかでもないぞ?
……本当に知らないんだな」
無反応な渚をどうしたものかと眺めていたが、やがて隠していてもいずれは判ることとでも思ったか、京一はやおら語り始めた。
「俺はね、ゲイなの」
「え……っ?」
思いがけない告白に、渚はたじろいだ。
京一は相手のそんな態度にはもうすでになれているのか、さして気にした様子もなく話し続ける。
「いつのころからか、男しか愛せなくなってたのさ。これでも昔は健全に女の子と恋愛したりもしたんだけどねぇ。別に女に疲れた、なんて言うつもりはないんだけど、実際どうなんだろう。男同士の方が確かにわかりやすくはあるな」
「……本当…ですか」
にわかには信じられようはずもない。
しかも、こんなにあっけらかんと言ってしまえるなんて、ますます信じられなかった。
「本当なら、どうしてそんなに簡単に言ってしまえるんですか。僕は……僕ならッ そんなこと、そんなに簡単に他人になんて言えません」
まるで自分に言い訳をしているみたいだ、と思いながらも、渚は自分を止めることができなかった。
「俺は真摯なホモセクシャルなの」
男は相も変わらず飄々と言ってのけた。
まっすぐと渚の目を見て続ける。
「男が女を愛するように、女が男に恋するように、俺は男と恋愛したいの。だからって相手が男なら誰でもいいってわけじゃない。それは男女の恋愛だってそうだろう? まぁ、中には異性なら年も性格も関係ない、なんていう輩もいるんだろうけど、そういう奴はそう多くはないだろ? 俺だって一緒。だけど、いつどんなときに恋に落ちるかなんて、そんなの自分にだってわかんないじゃん。だから最初から言っておくんだ。俺はそういう性癖の持ち主だって、そういうこと。簡単なんかじゃないさ。俺も言うのにはそれなりに勇気がいるよ? けど、本人が平気な顔してれば周りもそんなには気にしないみたいね」
そう言って少し間をおくと、京一は自分自身の言動に照れたのか、自分の顔を隠すようにさしてずれてもいないメガネを押し上げた。
「ああ、俺のことはどうでもいいんだって。それよりそう、おまえのことだよ。どう? 何か話す気になった?」
京一は、ふわっと優しく微笑した。その笑顔があまりにも美しくて、渚は思いがけず赤面してうつむく。
「汀……?」
京一の不審そうな声が頭上から聞こえる。
渚は迷った。
ゲイと自称するこの人になら、渚の心の内を告白しても大丈夫かもしれない。今まで、誰にも打ち明けられず胸に秘めてきたこの悩みを打ち明けられるかもしれない。
どうしようか……。
「言えよ」
優しい声に浮かれるように、渚は訥々と語りだした。
「……僕には、幼馴染がいるんです」
今となっては『いたんです』の方が正しいのかもしれない。
「家が隣同士で、僕とは正反対の性格の奴でしたけど、仲が良かった」
何をするのにも、いつも一緒だった。何も言わなくても分かり合うことができた。時にはケンカもしたけれど、すぐに仲直りをしたし、翌朝には何事もなかったかのように遊んだ。
「本当の兄弟以上に仲が良くて……一緒にいるのが当たり前でした。僕が……あいつを好きになるまでは」
いや、だからといって彼が渚の気持ちを知ってしまったわけではない。彼はおそらく渚の気持ちを今も知らないだろう。
京一は渚の告白をただ黙って聞いている。
相槌を打つことはあまりなかったが、それでも真剣に耳を傾けているのだけは良くわかった。
渚は続ける。
「僕は……気づいてしまったんです。僕が、ハルのことをそういう目で見てるんだって、ことを。僕はハルが好きだった。僕は、そんな僕の思いがハルを汚してると思った。そう思うと、いてもたってもいられなくて……これ以上ハルを汚さないためにも、もう会わないって、決めたんだ」
語るうちにいつの間にか敬語が抜けていることに、渚は気づいていない。
京一の方は気づいているのかいないのか、いずれにしてもそういうことはたいしたことではないのだろう。己も苦しみをこらえるように眉をひそめて渚の懺悔を聞いている。
「僕も、ハルも……男だ。れっきとした男だ。男を相手にこんなこと想う自分は間違ってるって、わかってて……止められなかった」
忘れるつもりで離れたくせに、余計に恋しくなっただけだった。
その思いを受け入れて生きることも、放逐することもできぬのなら、いったいどうやって己のバランスを保てばいいのだろう。正気でもいられず、狂気でもいられず、ただ薄暗い世界の中で煩悶を繰り返すのだ。
「ハルが好きなのに……ハルを貶めてる。ハルがほかの女の人と楽しそうに歩いてるのが……許せないんだ」
渚はその白い両手で顔を覆った。
震える語尾とそのしぐさに、京一は一瞬渚が泣いているのだと思った。
しかしそうではなかったということをすぐに知った。次の瞬間、渚は手をはずし、そらし続けていた視線を京一に向けたからだ。その瞳は濡れてはいなかった。猛る激情を無理矢理内に押し込んだような揺れる瞳が京一を捉えている。メガネの奥に隠された色素の薄いその瞳を、美しい、と思った。
「僕は卑怯だ」
渚は京一を見つめ続けている。京一はその迫るような視線をそらすことができない。
「ハルを汚していると知りながら、今もなおこうしてハルを汚し続けているんだ。そして僕はそれをハルに知らせていない。隠れて、想い続けているだけならまだしも、僕はそれを先生に話してしまった。ハルに伝える勇気なんかないくせに……」
一気にそうまくし立てると、渚はゆっくりと視線をはずした。
「汚してるんだろうな」
京一はポツリとこぼした。
渚は意表を衝かれたように京一を見る。
「おまえが汚してると思い続ける限り、おまえはそいつを汚し続けてるんだ。けど、だからってそう簡単に考え方を変えられるほど簡単なことじゃないってことくらい、俺だって知ってるのさ。おまえ、忘れてるだろ? 俺もおまえと同じ、ホモなんだ」
京一はわざと差別的な意味を込めてその言葉を使った。自分すらをも傷つける、諸刃の剣だった。
「だけどさ……仕方ないじゃん。好きになっちまったモンはさ。なぁおい、おまえ」
そう言いながら京一は右手で渚の顔を隠すメガネを奪った。
「そいつのこと、忘れたくはないか」
真剣な目だが、口元は不敵な笑みを刻んでいる。渚はうろたえた。
「わ、忘れられないよ」
渚のセリフに、京一はふふん、と笑った。
「できるかできないかじゃない。忘れたいか忘れたくないかを聞いてるんだよ」
渚は返答に窮した。
叶わぬ想いなら、早く忘れてしまいたい。しかし長い間抱き続けたこの思いを忘れてしまうことは悲しかった。
言葉に詰まった渚を誘うように、京一は優しく囁いた。
「俺が忘れさせてやる」
そう言いながら京一は渚の顔にかかっていた髪をゆっくりと払いのける。
「同情なんかじゃないぜ。カウンセラーとして言ってるんでもない。一人のオトコとして、言ってるんだ」
渚は大きな目をさらに大きく見開いた。
「俺の恋人にならないか」
右手にあった渚のメガネを机の上に置き、その手でそっと頬を包んだ。
「俺と恋をしないか」
間近に顔を寄せて、呟く。
京一の男らしい顔つきに、渚は鼓動を跳ね上げた。京一に見せられて、渚は息をすることさえ忘れていた。
京一の顔がさらに近づく。
口唇が、触れる……。
雰囲気に飲まれるように渚は目を閉じたが、京一のそれは渚と重なることなくすうっと離れて行った。
「……?」
不審に思ってそっと目を開けると、困ったように頭をかく京一がいた。
「……せんせ?」
不安に駆り立てられるように男を呼ぶ。
やはり、あれは嘘だったのだろうか。
渚のことを知った京一が、話しやすいように言っただけの作り話だったのかもしれない。
ありえないことだったが、渚にはわからない。
「フェアじゃないよな」
頭に手をやったまま、京一はぼやくように言った。
「なんか、傷ついてる奴につけこんでるみたいだ。こんなのはフェアじゃない。おまえが逃げないからって、やっていいことじゃなかったよな。悪い」
そう言われても、渚には返す言葉がない。
「もう帰れ。あんまり長くここにいると、変な噂が立つぞ」
「先生……」
渚は躊躇した。このままここを出て行くのはなんとなく嫌だった。
だが、渚と目を合わせない京一との間に気まずい空気が流れ、渚は仕方なく立ち上がると一言礼を言って保健室を出た。
そういえば、カバンは一体どうしたのだろう。教室に置いたままなのだろろうか。
だとすれば、教室まで取りに行かなくてはならない。
渚が教室へ向かおうとすると、ちょうど階段から下りて来た叶(かなえ)がこちらへ向かってくるところだった。
「渚。もう、大丈夫なのか?」
叶はそう言いながらやってくると、その手に持ったカバンを少し高く持ち上げて見せた。
「これ、おまえの。勝手に荷物入れといたぞ。もう帰れるのか?」
「ああ。帰れる。ありがとう」
叶からカバンを受け取って二人で昇降口まで行くと、そこには思いがけない人物が立っていた。
「……ハル」
渚が声をかけると、遥樹は渚を見つけて心なしかほっとした表情をして見せた。
「F組の汀が倒れたって聞いて、驚いて教室に行ったらもう帰ったんじゃないかって言われて……慌てたんだけど。大丈夫なのか、渚?」
「……ああ、大丈夫」
先程のこともあって、渚は目をあわせられずにそらした。
「よかった。頭、打ったんだろ? 一緒に帰ろう」
「でも」
「でも、じゃないだろ。用心は越したことない。途中でなんかあってからじゃ……」
「おい」
強引に渚の腕を引いて帰ろうとした遥樹を、見かねた叶が肩をつかんで止めた。とたんに、遥樹が険悪な視線を返す。
「なんだ、てめぇ」
「渚が嫌がってんの、わかんない?」
そう言って負けじと睨み返す叶の腕を乱暴に振り払って、遥樹は叶の胸倉をつかんだ。
「うるせぇッ おまえ何様だ?」
「やめろよっ」
今にも拳を振り上げそうな遥樹に、渚は慌てて飛びついた。
「何だよ渚」
「やめてって言ってるだろ……叶を放せよ」
渚に言われ、遥樹はしぶしぶ手を放す。
「いやだね不良は。すぐ暴力に訴えて」
「なんだとッ」
「やめろって言ってるのがわかんないのかよ、二人とも!!」
放課後のざわついた廊下に、渚の悲鳴が響いた。二人は渚のその声にようやく頭に上った血を落ち着かせた。
「……悪い、叶。僕、今日はハルと一緒に帰るから」
「オレも途中まで一緒に」
「叶」
最後まで言わせずに制止する。
「ごめん」
そう言われては、もはや叶に勝ち目はない。仕方なく叶は身を引いた。
「……解った。気をつけて」
それだけ言うと、叶は靴を履き替えて出て行った。叶とは帰りの方向が一緒だ。すぐに行けば同じ電車に乗り合わせてしまうかも知れなかった。
かといってこのまま遥樹と昇降口に居続けるのも妙である。
しばらくなんとも言えない雰囲気になって二人とも黙り込んでいたが、やがて遥樹が沈黙に耐えられずに口を開いた。
「怪我は、大丈夫か?」
「……大丈夫だって言ってるだろ。大体、別に怪我なんかしてない」
「けど、倒れたって聞いたぜ」
「……寝不足だったんだよ。大したことない」
たったそれだけのことで参ってしまう。貧弱なのだ。自分は。
「みんなが大袈裟なんだ」
遥樹のようにたくましくない。男らしくない。弱々しくて、女々しい自分。
「それにさっき少し眠ったし、もう元気」
「……眠ってたんじゃなくて、ぶっ倒れてただけだろうが」
遥樹はそういかにも不機嫌そうに言うと、渚の手からカバンを奪って靴に履き替えた。
- 作品名
- 第二話(風の中へ)
- 登録日時
- 2002/05/01(水) 00:00
- 分類
- TOシリーズ::風の中へ