その日の夜は、冴子さんが用意してくれたご飯を僕だけ一人でさっさと食べて、リビングの奥の僕の部屋に探し当てた布団を一式敷いて一人でさっさと眠ってしまった。
夜遅く、玄関の方から物音がして目が覚めた。
藤木さんが帰ってきたのかな。昨日から、なんだか彼は帰りが遅い。仕事が大変なんだろうか。藤木さんの仕事がコンピューター関係だっていうことは知ってるけど、具体的に何をする仕事なのか僕はよくわからない。こんなに夜遅くまでかかるほど、大変な仕事だったのかな。それを、今まで僕のために早く切り上げてくれていたのだろうか。だったら、そのしわ寄せが今来てるんだろうか。
いや……仕事とは限らないかもしれない。藤木さんはかっこいいし、お金も持ってるし、普段はとても優しいから…彼女とか、いても、不思議じゃないよね……。だから、その彼女と会って、楽しくやってたのかもしれないじゃないか。
自分の思いつきに、胸が苦しくなる。
そうか。藤木さんにも、恋人くらい、いるに違いない。
だとしたら……やっぱり、僕がここにいてはいけない。僕は、邪魔だ。
布団の中で丸くなって今にも泣きそうな気持ちを必死で抑えていると、不意に、リビングにつながるふすまがほんの少しだけ開いた。
「……恵君?」
疲れたような、彼の声が聞こえた。僕は泣きそうな気持ちを抑えたまま、答える代わりに身じろぎをした。
「おやすみ……」
何かを言いたそうに間を空けて、結局僕も彼も何も言うことはできず、藤木さんはそう声をかけてまたふすまを閉めた。
もしかしたら、夕べ藤木さんはこの部屋で寝たのかもしれなかった。普段は使われるはずのない予備の布団が簡単に探し出せたのも、夕べ彼がここで使ったからなのかもしれない。それで、またここで寝ようとしたら、僕が占拠してたってわけか。そうでもなければ、わざわざ僕にお休みの挨拶をしになんて来るはずがないんだから。
翌朝。
昨日と同じように藤木さんは僕にかまわずに朝食を食べて家を出て行った。
ふとカレンダーを見ると、今日は土曜日だ。普通なら、会社だってお休みのはずだ。それなのに、こんなに朝早くから家を出るなんて……やっぱり、藤木さんは彼女と遊びに出かけてるんだ……。昨日はもしかしたら本当に仕事だったかもしれない。その前も。でも、今日はお休みのはずなのにこんなに朝早くから出かけるなんて、僕はもう、それくらいしか理由が思い浮かばない。
着替えを済ませて、彼の消えたリビングに顔を出す。
切なくて、悲しくて、胸が痛い。
藤木さんが僕にあんなことをしなければ、僕は藤木さんを好きにならずにすんだかもしれないのに。
そうしたら、こんな想い、味わわずにすんだかもしれないのに。
だけど、もし彼があんなことをしなかったとしても、やっぱり僕は藤木さんを好きになっていたかもしれないとも思う。
結局、僕は藤木さんが好きなんだ。
そう思う気持ちに、理由なんかない。彼がたとえ僕にどんなことをしても、そうしたあとでさえ、僕が彼を好きなんだから。
だけど……藤木さんには、きっと僕はもう邪魔な存在になってるはずだ。いつまでもこんなところにい続けて彼の迷惑になるのは、なんとなくいやだった。
ふと、視界の端に僕が初めてこの家にやって来たときに着ていた学校の制服が映った。
僕が家を飛び出してからまだそう何日もたってはいないけれど、なんとなく学校が懐かしくなった。このまま一人で家の中にいるのは息苦しくて、僕はその制服に袖を通して玄関を出、学校へと足を向けた。
いつもと違うバスに乗ってようやく学校にたどり着いた僕は、中へ入るのをためらって校門の前で立ち尽くした。
土曜日の昼前の学校は生徒の姿もまばらだ。授業のない土曜日だったけれど、校庭や部室棟の周りには部活に来た生徒たちがいるみたいだ。
「あれ~? 岩崎?」
驚いたような間の抜けた声に振り向くと、そこにはクラスメイトだった男子生徒が両手にコンビニのビニール袋を提げて立っていた。お調子者の彼に僕は何度もからかわれたことがあったけど、そのいつのときにも彼に悪意がないことを僕はなんとなく知っていた。ありがたくはないけれど、そんなに嫌なものでもなかった。
「何でこんなところにいるんだ? しかもそんな格好でさ」
特に理由もなかった僕が答えに窮していると、彼は一人で勝手に納得したみたいにこぶしを手のひらに打ちつけると、僕の肩に手を置いた。
「そっか。退学の手続きって、色々と大変なんだな。まぁ、その。がんばれよ」
励ます彼の言葉の意味が理解できずに僕は首をかしげた。
「退学……? がんばるって、何を?」
聞き返した僕の言葉に彼の方こそ困惑を顔に浮かべて、
「何言ってるんだ。おまえの病気だよ。大変な病気なんだろ? 学校に通いながらの治療は無理だからって、おまえ、退学したんじゃないか。担任がみんなに教えてくれたぞ。……かくさなくったっていいよ」
その言葉に、僕は気が遠くなるのを感じた。
病気? 退学?
一体どういうことだろう。
理解できない言葉が僕の頭の中を通り過ぎる。その言葉が次第にわかってくると、僕は自分でもわかるくらいに青ざめた。
「おい、大丈夫か?」
心配そうに問いかける彼には、何とか頷いて返すので精一杯だった。
つまり、いつまでも家に帰らないでいた僕は、ついに学校を辞めさせられてしまったんだ。その適当な理由として、病気ということにした。病気なら、家にいなくても誰も不審がらない。そういうことだ。
家族はもう、僕が帰るのを望んでいないということなのか……。
「あ、じゃぁ、オレそろそろ行かないといけないから」
短い別れの言葉を交わすと、彼は慌てて校舎の方へ走って行った。
その姿を見送って、僕は力なく踵を返した。学校へ行ってみようという気持ちは微塵もなくなっていた。
学は、僕を待っているといったのに。いつでも帰って来いと言ってくれたのに。
父さんも母さんも、僕を探すどころか社会的に存在を消してしまった。僕の帰るところはもう、どこにもない。
知らないうちに、涙がこぼれていた。
誰にも必要とされない僕。
僕がいてもいなくても、誰もかまわない。
誰も僕を必要としてくれない。
僕がいなくなっても誰も悲しまない。
誰も気づかない。
こんな僕に、一体存在する価値があるんだろうか。
ふと見上げると、排他的なコンクリートのビルが高々と聳え立っていた。僕は、何の感情もなく、入りやすそうな大きなビルの階段を登って行く。一段、一段。
オフィスビルなんだろうか。人の気配はするけれど、扉の中から出てくる気配はない。
10階くらい上って行くと、ようやく屋上にたどり着いた。人のいない屋上。僕の背より高いフェンスが周りを取り囲んでいる。フェンス越しに足元を覗く。すくむような高さのはずなのに、いやに地上が近く感じる。この高さからなら、一発だろうな。下はコンクリートの道。邪魔になる木や茂みもない。理想の立地。
ここからなら、僕は飛んで行けるだろうか。どこまでも高く、飛んで行けるだろうか。
地上へ落ちる前に。
カシャン、と。
音がした。フェンスをつかみ、足をかけ、少しずつよじ登って行く。
母さんの顔が頭に浮かんだ。
父さんの顔が頭に浮かんだ。
学の顔が、クラスメイトの顔が、次々と浮かんでは消えて行く。
冴子さんの心配そうな顔がよぎって、そして、藤木さんの顔が目の前に浮かんだ。
大好きな、藤木さん。
きれいな顔で、優しい声で、僕を惑わし、僕に安息を与え、そして冷たく突き放した、藤木さん。大好きだった。本当に好きだった。僕の人生のうちにたった一人だけ、最初で最後の恋だった。おかしな出会いだったし、おかしな関係だった。まともなことなんて、今思い起こせば少しもなかったような気がする。体だけ重ねて捨てられるだけの関係だった。
つらかった。
思い起こすすべてのことがつらく悲しいもののように思えた。
あと少しでフェンスの一番上にたどり着く。そうしたら一息に飛び越えれば、僕は、苦しみから解き放たれる。すべてのことから解放される。僕は、自由になれる。
ふと、足元を見た。
そこにはさっきよりほんの少し高くなった絶壁が広がっていた。
足が、すくんだ。
もう少しで、この地上から飛び立てるのに。
なのに、僕はすくんだ。死んでしまいたかったはずなのに、この体が拒否をする。解放されることを望んでいるはずなのに、この体のすべてが生きることを望み、死への恐怖を叫び、この地上から飛び立つことを拒んでいた。
どんなに心が死を望んでも、この体は全身で生きようとする。
知らず知らずのうちに涙がこぼれた。どうしてだめなんだろう。苦しみから逃げてしまいたいと思う僕が間違っているのだろうか。だけど、これほどまでにつらいことばかりが重なってしまったら、僕はもう、他に逃げるすべを知らないんだ。それでも、この体は生きることを望むのか。
「恵君!!」
ふと、声がした。僕を呼ぶ声が。
濡れた眼差しのまま、涙を拭うことさえできずに振り向くと、そこに一人の男が立っていた。背の高い男。印象的な切れ長の二重の目。色の白い端正な顔立ちの美人。
「ふじき……さん」
かすれた声でようやくその名前を呼ぶと、彼ははじけたように走り出した。そうして僕の体を後ろから抱きしめると、強引にフェンスから引き離す。
「何をやっているんだ、君は!!」
力強い彼の両腕に捕まえられたまま一喝されて僕は首をすくめた。まともに彼の顔を見ることすらできない。
「あんなところに登って、死ぬつもりか!」
いつも穏やかで、声を荒げることなんかなかった彼が乱暴な口調で吐き捨てた。
「私の顔を見なさい」
あごをつかまれて無理やりそむけていた顔を向けさせられる。いまだ拭われない涙が、次々と僕のほほを伝った。
「……死ねなかった」
長い間をおいて、僕はようやくそれだけをつぶやいた。
「恵君……」
僕の短い独白に、藤木さんは息を飲んだ。よく見れば、藤木さんの口元は小さく震えていた。抱きしめた腕も、震えている。
「私の……せいだね」
震える声でそう言った藤木さんに、僕は首を振って答えた。
「違う……僕が、弱いから」
「恵君は弱くない」
「本当のことも言えないくらい、弱いから」
「恵君のせいじゃない。私が君から言葉を奪ったんだよ。立ち直れないくらいに痛めつけて」
「違う……そうじゃない」
そうじゃない。
「藤木さんに抱かれても……僕は……本当は嫌じゃなかった」
「!」
藤木さんが驚きに目を見開いた。
「僕が悲しかったのは、藤木さんが、僕を見ないから!」
言葉があふれて、もう止めることはできない。たとえこのあと藤木さんになんと言われようと、僕は僕の気持ちを今、彼に伝えてしまいたかった。
「僕は藤木さんのことを好きになってしまったのに、藤木さんは僕のことを見てくれないから! まるでただのはけ口みたいに僕を抱くから!! だから、僕は……悲しくて、むなしくて……泣きたくなるんだ」
最後の方は、嗚咽交じりでまともに言葉にならなかった。
そして、僕は藤木さんに抱きしめられた。力強く。
「恵君…っ」
抱きしめられた腕がとても優しくて、僕は錯覚してしまいそうだ。
藤木さんが僕のことだけを思っていてくれるのではないかと。
「私は……私も君のことを愛してる。信じてもらえなくてもいい。本当に、君を愛してる」
だけど、優しい抱擁の向こうから聞こえたのは、信じられないような言葉で。
「私は、不器用だから……君をどう扱っていいのかわからなかった。ひどいことをした。すまないと思ってる。だけど、この気持ちだけは、本当だ。愛してる」
彼の抱擁が解けると、僕は疑うような眼差しで彼の顔を見た。だって、信じられない。
「うそ……」
「うそじゃない」
でも、だって、信じられるはずないじゃないか。
「君の方こそ、私を好きだというのは、その、恋愛感情という意味かな。それとも、もっと違う意味だろうか」
「藤木さんと同じ意味で、僕も藤木さんが好き!」
慌てて僕はそう返した。せっかくここまで来たのに、誤解されたら大変じゃないか。
まるで空から降ってでも来たかのような唐突さで、僕の頭は混乱してる。
「あんなにひどいことをしたのに」
それでも、僕は彼が好きだ。
「……あの日のことは、その、本当にすまなかったと思ってる。その、いろいろあって……君を失うかもしれないと思ったら、感情を抑えられなくて」
「なにか、あったんですか?」
僕は聞かずにはいられない。だって、あの日の彼は尋常じゃなかった。
「……君の、弟さんに会った」
「!!」
昨日学ぶとあったときから、なんとなく変な感じがしてた。まるで学は藤木さんに会ったことがあるかのような口ぶりだったから。でも、まさか本当にあっていたなんて思わなかった。
「君にも君の家族があるんだと思ったら……君を失うような気がした」
「藤木さん……僕は、あなたのそばを離れない! あなたさえ許してくれるのなら」
僕を二度も救ってくれた人。僕を二度も拾ってくれる人。
優しい僕の救世主。この人となら、きっとこれからの人生を歩んで行けるから。
僕たちは……キスをした。
出会ってから何度目かの。そして愛を語り合ってからはじめての、キスを。
- 作品名
- Drops 懺悔の檻09
- 登録日時
- 2004/01/24(土) 02:56
- 分類
- Dorop::第一章 懺悔の檻