Ⅰ
春の日差しに包まれてすっかり熟睡していたは、人の気配に目を覚ました。
「お、起こしちまったか?」
「……」
学校の屋上。昼休みとはいえ、この学校でここを使用する生徒はいない。屋上のような殺風景な所にわざわざ行かずとも、一面ガラス張りのホールが校舎の三階にあり、さらに芝生が綺麗に刈り込まれた広い中庭もある。
だから屋上を使っているのは渚だけのようなものだった。
「本当、ここっておまえのお気に入りの場所だよな。なんだってこんな淋しい所が好きかねぇ」
渚の唯一、と言っても良い友人の君山叶がそう言っておどけて見せると、渚はふっと、微笑んだ。
「屋上って、風が気持ち良いんだ。それに、静かだし……」
「そうだなぁ。ま、確かに風邪は気持ち良いけど。オレはおまえの白皙の美貌が紫外線に負けやしないかって、気が気じゃない」
叶は渚を見た。確かに、渚は綺麗な容姿の持ち主だ。透けるような白い肌に、色素の薄い瞳と髪。
「そういうこと言うのはやめろって言ってるだろ」
「はいはい、すいませんでした」
渚に睨まれて、叶は両手を上げた。
そうなのだ。こんなにも整った顔立ちをしているのに、渚はその女顔が嫌いらしい。
その証拠に、そう言われることを何よりも嫌い、挙句の果てにその容貌を長い前髪と銀縁メガネで隠してしまったいるのだ。
叶あたりは、女うけするその顔を隠してしまうなんてもったいないと思っているが、渚には渚のコンプレックスがあるらしい。
「……なんかあったのか?」
いつも大人しい渚だが、いつにもましてぼうっとしている彼を不審に思ってそう問うと、渚は苦いような表情をして見せた。
「夢を、見たんだ」
「夢?」
「うん……」
「どんな?」
渚との会話は、叶が訊いてやらないと続かない。
「昔の夢。僕と、ハルが出てた」
「ハルって……おまえの幼馴染みのあいつか?」
「そう」
幼馴染みとは言え、現在ではほとんど交流がないのを叶は知っていた。同じ高校に通いながら、お互いに声もかけない。叶は渚と出会ったのが高校一年生の時だったから、彼らに何があったのかは知らないが、渚のこの様子から察するに、何かがあった、ということだけは確かだった。
叶は、勝手に相手が何かしたのだろうと思い込んでいる。何故なら渚の幼馴染みのハルといえば、このあたりでは有名な不良で、その名も。こう言ってはナンだが、優秀な渚たちと同じ学校に通っているのが不思議なくらいなのだ。
そう言えば、あの男についての新しい噂がまた流れていたか。
「山石の奴、女の噂が後を絶たないけど、ついにホストやってる、なんて噂が出てたな」
「ホスト?」
言わずもがな、未成年である。
「そ。ま、どうせただの噂だろうけど。……どうした?」
暗い顔でうつむいたきり黙ってしまった渚を、心配そうに見る。
だが、渚は考え込んだまま叶の声に応えることはなかった。
渚の心中は、決して穏やかなものではなくなっていたから。
遥樹のことを、渚は嫌いではない。いや、むしろ……。
煩悶を繰り返し、気の迷いと嘲笑し、それでもやはり答えはいつも決まっていた。
渚は遥樹が好きだった。
遥樹に恋をしていた。
中学生の時にその思いを自覚してしまった渚は、その思いを必死になって否定した。しかし、心は勝手に一人で歩いて行って、止まることも戻ることもなかった。
遥樹が好きなまま友人として一緒に過ごすことはできないと思った渚は、彼を忘れるためにも彼のもとを離れたのだったが……。
「ハルが、ホスト」
たくさんの女性達に、あの笑顔を振りまいているのだろうか。
「ふざけんな」
嫉妬だと、判っている。判っているが、どうにも気持ちを抑えることができない。腹が立つ。もう、自分のことも忘れているんだろう。そのくせ、端から女に手を出して、ご苦労なことだ。
「おい、渚? 大丈夫か?」
叶が優しい声をかけてくれる。
けれどそれも、なんだか申し訳ないような気がした。心配される資格なんて自分にはないのだ。
「大丈夫。なんでもないから……」
そうは言うものの、暗い表情が消えることはない。
「あのさ……言いたくないみたいだったから、オレも今まで聞くつもりはなかったんだけどさ……」
言いにくそうに言葉を選ぶ叶を見た。
「けど、なんか、おまえ辛そうだから。言えばすっきりするってこともあるだろうし」
「なに?」
はっきりしない叶に疑問符を投げかける。
「山石と、なにがあったんだ?」
「………」
「なんかあったんだろ? 見てれば判る。あいつの話になると、おまえいつもおかしいからさ。幼馴染みっつってもあんま親しそうじゃないだろ? あいつに、なにかされてるのか? だったらオレに言ってくれよ。力になれるかもしれない」
「なんにもされてないよ」
「隠すなよ」
「隠してなんかない!」
声を荒げた渚に驚いて叶は押し黙った。渚はしまったと言うように視線をそらす。
これでは、何かあったと認めたようなものだ。
「……ごめん、叶。でも、本当になにもないから。僕たちは……なにも」
そう言って渚は哀しそうな顔をした。それがどう言う意味を持つのか、叶には知る術はなかった。
放課後、渚はいてもたってもいられなくなって家に帰るなり着替えもせずに遥樹の家まで訪れた。
遥樹の家は渚の家の隣だ。
とは言え、剣道場の山石家は広く、渚の家の玄関から渚の家の玄関まではそれなりの距離がある。いつ見ても立派な門構えに、それまであった勢いも気圧されされてしまった。
「どうしよう……」
昔は、毎日のようにこの門をくぐっていた。どちらかの帰りを待つまでもなく、一緒に帰って来ていた。
しかし、もう一年以上もまともに顔を合わせていない。
そんな時間の差が、ここまで来て門をくぐるのをためらわせていた。
「渚か?」
不意に背後から声をかけられて、渚は狼狽した。振り向いたその先にいたのは、紛れもなく山石遥樹その人であった。
「あ……」
久し振りに間近で見る遥樹の姿に、渚の心臓は跳ね上がった。
「……珍しいな。なにかあったのか?」
「あ、あのさ、変な噂聞いてさ」
「あ?」
途端に、遥樹が嫌な顔をした。
久し振りに会った幼馴染みからの第一声がこれでは、確かにいい気持ちはしないだろう。
「それが本当にふざけた噂で」
そんなどうしようもないことなどもう聞くのはやめようと思うのに、この口を止めることができない。
大体、そんなものを聞いてどうしようと言うのだろう。
例えそれが事実であろうとなかろうと、今の渚にはなにも言う権利はないはずだ。
「ハルが、ホストやってる、なんて言うんだ」
「その噂、嘘じゃないぜ?」
遥樹の言葉に、渚は目を見開いた。
「やってるよ、ホスト。ホストはいいよ? イイオンナが選り取りみどりだし」
そういって満足そうに笑う遥樹を見ていられずに、渚は視線を落とした。
「ハル、おまえまだ未成年じゃないか。いいのかよ、そんなことして」
「ああ?」
遥樹はむっとしたような声を上げた。
そしてその端整な顔にかかる長い髪を苛々したようにかきあげると、渚の方は見ずに言った。
「なんだよ。おまえにはカンケーないだろ? 説教しに来たんなら、オレは聞かねぇぞ」
「あ、ご、ごめん」
遥樹に睨まれ、渚は益々視線を落とした。
そうだ。今の渚は、遥樹が何をしようととやかく言う筋合いはない。
もっと仲のよかった頃ならもっと違っていただろう。遥樹は渚の言うことも聞いただろうし、なによりそんなバイトなどやっていなかったのではないだろうか。
それも今となっては……。
そもそも、離れて行ったのは自分の方からだった。
遥樹を好きになってしまったのは自分だ。
どんなに想っても、遥樹が渚を好きになるなんてことはないのだ。こんな想いは、遥樹にとって迷惑以外の何物でもないだろう。
遥樹は……。
例え自分がどんなに綺麗な想いをいているつもりでいても、遥樹にとっては綺麗なんかじゃない。
醜く歪んだ、不自然な想い。
――――気持ち悪い。
遥樹の容赦ない声が聞こえるようだ。
判ってる。
判ってるから、言うつもりなんかない。
遥樹がそんなのではないことくらい知っている。だからホストをやっているんだろう。女の人の噂も後を絶たないくらいだ。
渚など、ただの友達でしかなかった。
その、友達というポジションさえ、放棄したのは自分の方だ。
渚は、遥樹にとってなんでもない。
汀渚という男のことは覚えていたとしても、特別な存在でも普通の存在でも、なんでもない。忘れられていなかっただけでもよかったのだ。
「ごめん」
なにに対する『ごめん』なのか、自分でもよくわからなかったが、渚はただそう言った。
そして相手の返事も聞かないうちに踵を返すと、そのまま駆け出した。
自分の部屋に戻るなりベッドに突っ伏した。
もう、どうしようもないくらいに自分に嫌気がさした。
(どうして、ハルを好きになっちゃったんだろう……)
そう思いながら遥樹の姿を思い浮かべる。
真黒な髪と瞳と、健康的な焼けた肌。
男らしい顔つき。
どれもみんな、渚にはないものだった。
優しい声に、笑顔に、しぐさに、そのどれもに惹かれた。どれもみんな魅力的だった。
好きだと気付いたのは、多分中学二年生の夏休み。いつものように剣道の練習から逃げてきた遥樹が、そのまま渚の部屋で眠ってしまった、あの時だ。
どうしようもないくらいに緊張して、そんな自分がおかしくて、そして気が付いてしまったのだ。
ああ、僕はハルが好きなんだ、と。
綺麗な遥樹を汚してしまったような気がして悲しくなった。
こんな自分はイカレテル。
それでも、渚は止められなかった。そして、とうとう二人は友達ですらなくなった……。
種をまいたのは自分だ。
遥樹を汚してしまわないように、この想いを心の中にしまい込んだのは自分だ。
諦めたつもりだった。
叶わないなんて、知っていた。
だからもう、遥樹には二度と逢わない。
渚は心の底からそう誓った。
翌日、寝不足のまま渚は学校へ向かった。
「おはよう」
教室には、すでに叶の姿があった。
「おはよ」
見るからに寝不足そうな渚と違い、朝から元気な叶は、自分の机にかばんの中を出している渚を心配そうに見ながらやってきた。
「おい、なんか、大丈夫か?」
「……大丈夫だよ。どうしたの?」
「それはこっちのセリフ。なんか、元気なさそうだけど」
叶に心配されて、情けない気持ちになった。
平気な振りをしていようとしているにもかかわらず、はたから見ればまったく平気などではないらしい。
「そんなことないよ」
渚はそう言いながら無理矢理笑った。
けれどその顔を見た叶は益々神妙な顔つきになってしまった。
「まぁ、言いたくないなら……聞かないけどさ。あ、なんか昨日も似たようなこと言ったな」
そう言いながら叶は頭を掻いた。渚をどう扱ったらいいものか、考えあぐねているようだった。
「話すようなことなんてなんにもないってば」
渚は苦笑したが、叶の表情は晴れない。
「それより、もうすぐ先生来るぞ」
渚の言葉通り、チャイムが鳴って教師が入ってきた。
叶は気がかりになりながらも、仕方なしに自分の席へと戻って行く。
授業が始まっても、渚は遥樹のことを考えていて、上の空だった。
なにより、寝不足がこたえている。
先生の声を聞いていてもまともに頭に入ってこない。集中しなければ、と思えば思うほど、遥樹のことが頭をよぎって集中などできなくなってしまう。
昨日、あんなことをしてしまって、渚はきっと遥樹に嫌われてしまっただろう。
変な奴だと思われたに違いない。
関係ないことに口を出されて、うるさい奴だと思われただろう。
どうして、あの時自分を止められなかったのだろう。
どうして……。
もうやめよう。
もう、こんなことはやめにしよう。
きちんと、どこかの女の子を好きになってそれで、遥樹が誰と付き合おうと、なんのバイトをしていようと、それだけだと、思えるようになろう。
「渚?」
声に、渚は我に返った。
顔を上げると叶がいた。
「次、体育だけど。大丈夫か?」
「あ、そうか。着替えなきゃ」
そう言って慌てて体操服に着替え、叶と二人でグラウンドに出た。
春とはいえ、日差しはずいぶんときつくなってきていた。
寝不足の身体を引きずるようにして、体育の授業に参加していた渚は、サッカーボールを追いかけて走り出した途端に激しい目眩に襲われて立ち止まった。
「あ、おい!」
「危ない、汀!」
複数の声を聞いて振り向こうとした瞬間、頭に鈍痛が走って前につんのめった。手をつこうにも、目眩が治まりきらずに力が入らない。
「なぎさッ」
叶の声だ。
そう認識したのを最後に、渚は意識を手放した。
- 作品名
- 第一話(風の中へ)
- 登録日時
- 2002/03/01(金) 00:00
- 分類
- TOシリーズ::風の中へ